★ますたぁ日記(一語一会)

ますたぁ@BAYSIDE BREATHがつれづれなるままに書き綴る日記のページ。

「自己責任」って何だろう?

イラク邦人人質事件との関連で「自己責任」をめぐる論議が盛んである。けれどもこの言葉の意味どうにもわからなくなってきた。どうも、社会が考えている「自己責任」と、人質となった彼らが考えている「自己責任」の意味がずれている気がする。いったいどこがずれているのか?

広辞苑で「責任」を引いてみると、2つの意味が載っている。

1)人が引き受けてなすべき任務
2)政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。

社会が彼らに問うているのは、2)の意味。つまり、「危ない所に行った行為は無謀。だから自分(たち)が悪い。自分たちに事件の原因があったのでは?」という考え。


一方で、各新聞の記事によると、彼ら(といっても、二人だけだが)の認識はこうである。

(毎日)
『自己責任論について郡山さんは「ジャーナリストは危険だからこそ現場に立って伝えることがある。僕らに当てはまる言葉ではない」、今井さんも「自分にとっての責任は、今回のことを日本の人たちに伝えることだ」と語った。』
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20040501k0000m040099000c.html

(産経)
『自己責任をめぐる論議に関連して、郡山さんは「ジャーナリストは危険だからこそ現場に行くべきで、リスクを負ってわたし自身は行動している」と述べ、今井さんは「自分にとっての自己責任は、会見でイラクの現状を伝えることだ」と話した。』
http://www.sankei.co.jp/news/040430/sha080.htm

(朝日)
『郡山さんは事件後に噴出した「自己責任論」について、「ジャーナリストは危険だからこそ伝えることがある。リスクを背負って仕事をしているので、僕たちに当てはまる言葉ではない」と反論。』
http://www.asahi.com/national/update/0430/024.html

(読売)
『自らの責任について問われると、郡山さんは「ジャーナリストは危険だからこそ現場に立って伝えるものがある。リスクを背負っているのだから、僕らには当てはまらない」と話した。さらに、午後8時から日本外国特派員協会で開かれた2回目の会見では、「信念、自信、誇りを持っており、自己責任とか自業自得とか言われるのは心外」としたうえで、「今回、取材は何もできなかった。準備ができ次第、また(イラクに)行きたい」と述べた。』

『今井さんは「国内の反応に驚いている」としたうえで、「今回の体験や、劣化ウラン弾の被ばく、イラク戦争の悲惨さを語るのが、自分に生じた責任と思う」と話した。』
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040430i115.htm


#話が横道にそれるが、こうやって各紙の記事を並べていると、二人の語った言葉が編集されている事実がわかる。いちばん詳細に伝えているのは、読売か?

これらを見る限り、郡山の主張は、2)の意味で認識した上で「危険地域に行くこと自体に意味がある。一般的な自己責任は当てはまらない。」ということか。一方、今井の場合は、責任の意味が1)に意味に変わっている?

いずれにしろ彼らは、事件の原因として自分たちに非があったという考えを全く持っていない、らしい。たしかに「ジャーナリストは危険だからこそ現場に立って伝えるものがある。」というのには一理ある。

ただちょっとひっかかることがある。それは、「なぜ彼ら(だけ)が人質にされたのか?」 ということ。

実際イラク渡航している日本人ジャーナリストやボランティア活動家はほかにも大勢いると思う。なのになぜ彼らなのか?(人質となったのか?) ひょっとしたらそこには、他の邦人たちとは違う、判断ミスや油断があったのではないのか?

もちろん今後も同様の事件が発生しないとも限らないわけだが、判断ミスや油断という意味での「自己責任」についてはどう考えているのか? このあたりも聞き出してほしいと考えるのは、私だけなのか?

#自己責任については、江川紹子さんのサイトも参考になるかも?

●「被害者叩き」の前に検証を
http://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_31.html

●いわゆる「自己責任論」について
http://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_28.html

●社会のこといろいろ
http://www.egawashoko.com/menu4/